
いきなりですが、あなたは「夢」を叶えていますか?
おそらく、「いや、まだ夢を叶えていない」と、ちょっとムッとした顔でこの文字を読んでいることでしょう。
僕も、なんか「夢って叶えるものだ」というG氏の発言だったり、「目標を立てて夢にむかってなんちゃら」とかそういう音を聞いて、それはわかるけど叶えても叶えても無限に夢が遠くの方にできるから結局叶わないのではないか?と少ししんみりしていたのです。
しかし、あることに気がついたのです。
ん?もう叶っているかもしれない・・・と・・
今回はその話について書いてみたいと思います。
死んで生まれ変わるなら何になりたいか?
ソファーに座りながら、ぼーっと回る地球儀を見ながら考えていたのです。
いつかは、この視点で地球を見ているのかな・・・そしたら自分はなんて思うんだろう・・・って
動画を出しますので、よければ一緒に考えて見ましょう。
もしも地球の外側に行ってしまい、この地球を眺めた時に、なんていうんだろう・・・
そんなことを考えていたら1つ言葉が出ました。
「ゼロからでいいから人間としてまた生まれたい」
そんな風に思ったのです。
つまり、どんなに地球上で実績をあげたとしても、最後地球を見た時に、また地球で過ごしたいな・・・と100パーセント思うだろうと感じたのです。
だったら今って最大の夢が叶っているじゃないか!!と、目が覚めたのです。
一瞬で「欲しいものリスト」「なりたい姿リスト」「欲」を思う存分書いていいのです。
夢は神様が叶えてくれた
ということは、最大の神頼みはもう叶っているのです。
なので、1日1日を愚痴、泣き言、不平不満、妬み、怒りで生きていてはもったいないのです。
最大の夢を神様が叶えてくれているから、僕ら人間が間違えた方向に行くと、お知らせをしてくれるのです。
「そっちじゃないぞ、そっちに行けば、また逆戻りだぞ」とごろごろしながら地球にいる僕たちを見ています。
そして、「仕方ないなぁ・・・」とちょっとだけいたずらをしてくれます。
そのいたずらに怒っていたら、神様は、もう一度いたずらをしようと繰り返してくれるのです。
頑張る人には「ちょっとした試練」を与えてくれます。
「この試練を乗り越えたら望みは1つ近づくよ」という試練です。
この2つの方向でどっちに向かうかは、僕たち一人一人でしか考えることはできないので、各自考えて見ましょう。
みんな幸せになりたい
これに異論はないと思います。
そして、問題なのは幸せの定義を「願いが叶う」とゴールのように設定しているところが最大のミスだと僕は感じています。
なぜかというと、願いはもう叶っているのです。
幸せの定義を「願いを追う」過程に置くと間違いなく幸せになります。
例えば、誰がか「逆上がりをする」と頑張ってる時に、「逆上がりは最低限必須だぞ」ということよりも、「まずは足が上に上がったね!あと少し!」と話す方が幸せの空気になるということです。
子供の時に、「永遠とたどり着かない理想」を追わされている子供は、伸び代が少ない傾向があるようです。
昔サッカーのクラブで小学生で最強のチームがあったのですが、これはまさに「これくらいはできるようになれよ」という監督の教えで強かったチームで、試合中もよく怒っていました。
しかし、そこから中学、高校と上がって行っていくにつれて、もともとそのクラブにいた小学生が「並」か「並以下」の選手になっていく過程を見ていて、なんかおかしいと思った記憶がありました。
こういうことなんですかね・・・
理想を追う過程に幸せを覚えると永遠の先まで行ける
もう一度図を出します。
未来の自分は「矢印」によって形成されて生きます。
この「矢印」を愛することができたら、無限と進んで行く気がしませんか?
今の現実と、永遠にたどり着かない理想を比べたとしても疲れてしまいます。
だから考えたのです。
「たどり着かない永遠と比べるのではなく、今あるものをどう進化させるかだけを考えて動く・・と・・」
そして、この過程で起きたことを好きになるということを・・・・
それによって、「矢印が楽しい」という意識を自分の中に刷り込んで行ったのです。
だから、ご飯を作るにしても、食べれればいいという「1=1」で考えるのではなく「1=3」にならないか?で動くようにしたのです。
食器に投資する。盛り付けできれいにならないか工夫する。お品書きを書く
・・・もちろん毎回はできません笑
がしかし、たまには、この「1=1」という常識を変えるような行動をとると、なんだか嬉しい気持ちになれるのです。
僕たちは、どうやら「矢印」でしか幸せになれないようにインプットされているようです。
おじいさん、おばあさんが子供に戻って行く・・・という現象は、もしかしたら子供として生まれる準備をしている・・・のかもしれないですね