論文を引用しない理由

おはようございます。

最近メンタリストだいごさんが、YouTuberに「でたらめな論文で動画を作っている」と批判動画が上げられています。

だいごさんは、反論に対して、後付けのような言い方でカバーをしていて、個人的にはどっちでもいいのですが、論文の話の内容が合ってる合ってないのような議論って意味あるの?

というのが僕の率直な意見です。

今回は、本や論文など、著名なものを解説することの無意味さについて書いてみようと思います。

責任転換ができる

社会のトラブルの一つとして、「言った言わない」というのが代表的に挙げられます。

このトラブルは、責任を逃れるために起こる現象です。

論文とか、本とか、有名な人の話を出すことで、「〇〇が言っていたから自分は知らない」とか言って逃げることが可能です。

もしくは「他を探したら○○って別の人がこう言ってました。補足します」など責任転換を繰り返すことができます。

情報そのものは原文から

論文などを引用して自分の言葉のようにして、悪評があったら原文へ逃げるのなら、初めから原文を紹介して、原文を読みたい人だけが読めばいいと思うわけです。

内容が知りたい人なら、原文も読めるはずです。

原文まで気にならないということは、「エンタメ」「キャラクター」を見ているだけで、内容は対して欲していないということになります。

内容を欲して聞いているわけでないので現実は何も変わらないということになります。

映画鑑賞くらいの感覚なはずです。

さらに、その原文はどこを元として生まれたのか?を考えても、人からしか出てきません。

人というのは、他人か自分しかいないので、結局は自分の経験を未来の種にすることが出来ないと、自分を見失うこととなるでしょう。

経験した話の責任は自分で取れる

例えば、辛いものを食べると汗が出る人が、「辛いものを食べると汗が出る」と言ったとしましょう。

同類の論文で、「辛いものを食べると汗が出る」という内容を書いたものを読んだとしましょう。

僕は、「いいからさっさと辛いものを口に放り込み、自分の口で経験を話せばいいのに」と思ってしまいます。

エアコンの効いた快適な空間で、「辛いものを食べると汗が出るんだ〜」と読んでる人に、「辛いものを食べて汗が出る本当の感覚」なんてわかりっこないと思います。

それが科学的に証明された内容とかどうでもいいのです。

自分で経験したことを自信持って喋ることが重要かと思います。

「辛いものを食べたら汗が出たんだから、他の誰が何と言おうが事実だ!」と押し切れます笑

答えを快適に掴みたいと思っても、経験やストーリーが無いので、本質的には掴めないはずです。

なので、僕は論文を解説とかはしません。

話を聞かされてばかりだとつまらない

人生、話を聞かされて、聞き役ばかりに回っていると、いつまでも聞き役で、自分の口から語れることなんかありません。

メンタリストダイゴはワインを飲みながら喋っていて、それを聞いている人たちは必死に労働している人がほとんどなのではないでしょうか?

なんて思いながら飲んでいるでしょうか?

最近は、ワインについても語り始めていて、エゴが育ってきたなと僕は見えています。

聞かされている時点で、行動力、勇気、着眼点、勉強量、パワーで負けていることに気がつかなければいけません。

僕のブログは経験からしか書いていないので、僕の中では合っていても読み手にとっては合っているとは思っていません。

僕もあなたも、互いに行動のモチベーションにつなげたいという気持ちで書いています。

 「自分はそうだった。」と断言できる会話

「仕事を生活のためとか、つまらない理由で取り組んでいたら、結局気力もなくなっていき、モチベーションも下がってくる。自分はそうだった」

このように話すと、自分の経験から話をするので、間違いはないのです。

そしたらおそらく探せばありますよ。

何をモチベーションとしたら仕事のパフォーマンスがあがるのか?という論文が

しかし、それを知ったところで、それは自分のことが書いてあるのか?ということです。

情報が先か?行動が先か?は常に行動が先にあり、後から情報化するものです。

情報を掴んだとしても、未来に対して参考にし、行動しないことには、新しい情報は生まれないのです。

モチベーションのありか

自分のモチベーションの上がり下がりとか自分が良くわかってるはずです。

ここを度外視して、本や論文に逃げると、自分から逃げていることになり、結局自信を失います。

そして、「自信の付け方」のような本を読だり自己啓発に溺れることになるのです。

もっと自分の脳や経験を信じる勇気を持ってもいいのです

 日々のアクシデントすら心地いい

同じような失敗を繰り返し、自分が嫌になることももちろんあります。

しかし、数日前も書きましたが、いつか終わる日があります。

https://malya.sakura.ne.jp/create_walks/ichinichi/

アクシデントというのは、チャレンジがあるから起こるものです。

チャレンジが尊いものだと思うと、アクシデントという結果が出たとしても、自分を褒めるということができるはずです。

そうすると、論文とか自己啓発の本とか手放すことができるはずです。

真の自由は、自己啓発に縛られた人生からも解放される必要があるのです。

本の2つの側面

勉学は成長したいという側面から来るものと、不安、自信のなさを本でカバーするという2つの側面があるとおもっています。

不安、自信のなさでも本は増えていきます。

反対に、これだけに絞って、これを習得するぞ!と意気込むと、本の数は減っていくはずです。

(集める数は膨大、取り込むのはピンポイントで取り込む)

 「たしかにそうかも!」戦略

メンタリストだいごの戦略としては、論文やたくさんの本のある空間で自分を演出し、権威性を表現し、「たしかにそうかも!」という話を出し、共感、信頼させてから有料のものへ移行させていくという方法を取っています。

少し前では、六本木ヒルズでキラキラした格好で営業を行い、起業コンサルをチャージするような胡散臭い人たちは詐欺だ!と言われていたことと、本質的には、やってることは同じです。

いや自己の発信を促し、放置のようなやり方をしていた起業コンサルのほうが本質的には愛があると個人的には思います

結局は本質が掴めないと、永遠に眠らされて気がつかないんだなぁ、、という面白さを感じます。

興味、関心

共感、信頼

鳥かごへ

餌やり、コントロール

これは負の流れです。ここに何を当てはめても、苦が生まれるはずです。

興味、関心

共感、信頼

共に飛ぶ

こうならないと楽しみは生まれません。

受け身ではなく共に飛ぶ意識は欠かせないのです。

経験則から語る

経験則から語れないから自信が出なく、うろうろしてしまうということに気付いた人から、自主的に動いていく傾向があるようです。

一番信頼できる情報は、自分の歩み、足元にあるはずです。

それを本や論文で被せて、答えはここにあるから、こっちを見ろ!のように旗を立てて人を集めることが「ストレス社会」の根源であるとしたら、結局は戦いは消えないということになります。

経験から物事を語ることでパワーを得るのです。


ここからはプラスアルファの内容となります。

戦いの発生

旗を立てる現象はこの世で途切れることはないので、だったら戦う術をつけていくことは必須となり、結局は目に見えないですが、この世は弱肉強食の世界ともいえます。

誰かが旗を立てた時点で戦いは始まるのですから

その戦いの過程の研究が論文のような物なので、戦いに強くなり自信をつけるということとは無関係、むしろ自信がなくなる方に引っ張られるのかなと思います。

サッカーの勉強、研究だけをしている研究者を集めて、サッカー少年と試合をさせたらサッカー少年が勝ち、研究者は自信を失うことでしょう。笑

サッカー少年は、なんか良くわからない大人に勝ったー!くらいの感覚で次の遊びのことを考えることでしょう。

研究者たちはなぜ負けたのか?を分析し考えた結果、結局、実践トレーニング、戦いをしていないことにしか辿りつかないことに幻滅するはずです笑

戦いの消滅

旗を周囲に立てていくことで、旗への執着が消えて、敵や争いは消えていきます。

研究者は、サッカー少年と戦わず、サッカー少年がより快適にサッカーが出来るように考えていくと、敵や争い、勝ち負けはなくなるということになります。

「旗を持ちたい人」を倒すには、旗を持たせて周囲と戦わせるのです。。。

セコンドやオーナー、ブランドの販売、銀行、国家のように

論文を引用しない理由は、自分の発言を正当化、強化させる必要がないということと、個人的な経験なんか読まれない事もわかっているし、旗を自分の場所であげる事を考えていないからです。

通りすがった人が何となく参考になったと思ってくれて、読み手の旗が大きくなることを意識して書いているというのがこのブログの趣旨となります。

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